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Wisteria★Maiden

★ゆまの【好き】を気まぐれに綴っていきます★

おじいちゃんとの思い出

日常

10月27日1時頃、に母方の祖父が亡くなりました。

この日は、リーディングライブに行こうかなと思っていたのですが、遠征疲れで休み希望を出さず、普通に出勤予定の日でした。

夜中に姉が起こしに来て、朝早くからなんで来たんだろ?まだ寝ると思い、咄嗟に寝たふりをしてしまいました。

危篤で病院に行かなきゃなのかなとか思ったのですが、既に病院で息を引き取ったとのことでした。

家の外には、祖父を乗せた車が止まっていました。

私は無意識のあいだに涙を流していました。

母と姉は一緒に葬儀屋に行きました。

私は泣きながら祖母としばらく話していましたが、明日から忙しくなるよということで、寝ることになりました。

夢を見ない眠りはいつぶりなんだろうか…。

翌日は通夜の予定でしたが、となると葬儀が友引になってしまうということで、一日あいだを開けることになりました。

職場に電話をかけると、本来3日くらいと言われたのですが、希望を言うと4日間休ませていただけることになりました。

母の希望でその日は片付けをしました。

親戚がみえるからです。

片付けは全然進みませんでした。

そして、その日は葬儀場で姉とふたりで祖父の遺体と泊まることになりました。

母も一緒だったんですが、祖母のそばにいないといけないので、帰りました。

祖父が亡くなる少し前の日に、一階が祖父の寝室なのですが、寝る前にずっと呼んでいる声が聞こえました。

その日、母がすごく疲れていたので、私は聴こえないふりをしてしました。

4時頃なんとなく目を覚ますと、まだ呼んでいるので、母に伝えると、祖父がベッドから落ちていたそうです。

これが原因になったのかな、私は今でもすごく悔やんでいます。

考えると悲しくなるのであたしはずっとアプリとDSで気を紛らわせてました。

通夜の前に湯灌の儀に参加しました。

すごく丁寧に扱ってくれたんだけど、やっぱりやめてと思って、ボロ泣きしました。

通夜の前に髪を切りに行きました。

前髪が長かったので、きれいにしてから出なさいとみんなに言われたから。

髪を切って、通夜の打ち合わせが始まる前に、

お供えに祖父の好きだったモンブランがないのがどうしても納得いかなくて高島屋まで行きました。

買ったのはレニエの中津川モンブラン

別にこれが好きってわけじゃないんです。これが好きなのはむしろ私です。

祖父のイメージは黄色のモンブランだったんですが、私が好きなこれを食べさせたことがない気がして、

2個買って帰りました。

通夜が終わって、一旦うちに帰ってお風呂と着替えをもってまた葬儀場に泊まりました。

寝れなかったので、抱き枕がわりにぬいぐるみを持っていったのですが、やっぱり寝れなかったです。

朝、よくわからない朝ごはんを食べました。

あんま美味しくなかったです。

葬儀は無事に終わりました。雨でした。

祖父に持たせるものと、お花を添えるときにボロ泣きしました。

最後のお別れなんです。

柩を閉じる際に、祖父に抱きついて、ごめんねと言いました。

私の買ってきたレニエも食べてくれると嬉しいです。

そのあとは、火葬場に移動です。

父方の叔母や父方の祖母で目の当たりにはしていましたが、霊柩車のクラクションは涙が止まらなくなりますね。

火葬場に着くと、すぐに火葬されてしまったような気がします。

叔母や祖母の際にはもう少しお別れに余裕があった気がしましたが…。

そのあいだ、ご休憩所に移動しました。

一人になりたくて、リラックスルームというパソコンやマッサージチェアのあるお部屋でゆっくりしていました。

お骨を入れました。

泣きながらだったからうまく入れれなかったです。

祖父は92歳の割にすごく立派な足の骨でした。

2日で見る影もなくなった姿になったのがすごく悲しかったです。

それから、葬儀場に戻ってまた坊様にお経を読んでいただき、

ごはんを食べました。これは結構美味しかったです。

会社に電話しました。

明日も休んでいいでしょうかと確認すると、ありがたいことにお休みいただけました。

来月の法事もお休みいただけるでしょうか。

口は悪いけどなんだかんだでいい上司だと思っています。

荷物をまとめ、祖父と帰ってきたのは4時頃だったんですが、

なんだかんだで7時になった頃、夕飯に祖父が好きだったピザを取りました。

祖父と一緒にいただきました。

祖父と祖母とは私が物心着く前から一緒に住んでいました。

だから、両親と同じくらい大事な存在でした。

うちの裏がまだ駐車場だった時は、まだ祖父の車があったのでいろんなところに連れてってもらいました。

スポーツセンターのプールに、ステーキ屋さんや洋食屋さん、毎週のように行ったお宮参りなど。

洗車を手伝うと、小遣いくれるというのでほとんど何も手伝えてないにも関わらず、お小遣いをくれました。

すごく嬉しかったです。

古い硬貨やテレカを集めてて、まだ使えるお金なら頂戴って言って「ダメ」って言われたり、

本名が超日本人な名前なんで「もっと洋風な名前が良かった」といったときは「チャシャリン(キャサリンと言いたいらしい)とかかね?」とその日だけチャシャリン呼びをされました。

旅行もたくさん行きました。

私が覚えてる一番古いのは、みんなで飛行機で北海道に行ったことかな。

耳が痛くて、飛行機乗らないといけない北海道なんかやだとおもったな。

祖父は戦後、調理師免許を取ったり、一生懸命祖母と働いて、お店をやっていたのですが、

名前が苗字の屋をつけた○○屋だったので、クラスでからかわれてすごく嫌だったのが私の思い出です。

お菓子屋をやっていたんですが、お菓子屋をやめたのに看板がそのまま残っている実家なのでそれがすごく恥ずかしかったです。

でも、手作りでやっていたアイスキャンディやアイスクリームは人気だったと教えてもらい、なんだか誇らしくなりました。

うちはすごく便利な土地にあるんですが、すごく頑張ったんだなと思います。

写真を撮るのが好きな人で、定年後は本当写真バカでそれしかないくらい毎日毎日パスや電動自転車でいろんなとこいってたなあw

携帯のカメラにも興味持って、あたしの携帯にやたら興味持ってたなw

結構賞ももらっていたみたいで、賞状がたくさんありました。

金属だからと柩にカメラを入れてあげれなかったのが本当に残念です。

動けなくなってからは、絵を書いていました。

画用紙がなくなると、早く買ってきてと母にお願いしてるのを何度も見ました。

写真のクラブで仲良くなった教師の方に書いていただいた戦争の思い出の文章を先程見せていただきました。

戦争の時、海に投げ出されて、生きて変える!と必死に掴まって泳いで生還したという話は子供の頃から聞いていました。

瑞鶴という戦艦にいたそうです。

生きて帰ったのは7人だけだったそうです。

なんか、そんなすごい人だったんだな、いろんな話聞きたかったなと今更思っています。

私が今使ってる自転車が祖父の形見になってしまいました。

なんだかもう、壊したくなくて乗れないよ…。

葬儀場から自転車で一旦帰った時、すごい悲しい気持ちになった。

もう話せない、声も聞けない、目も合わない、この家にいない。

まだ実感わかないです。

まだどっかに入院しているんじゃないかって気持ちです。

もっと話せばよかった、毎日顔合わせてから仕事に行けばよかった、仕事から帰ってきたら顔を見せればよかった。

自分が8年間も引きこもってまともに家族と接してなかった時、

もっともっと一緒に過ごせたのに。

倒れて呼んでる時にすぐ母に知らせなかったこととともに自分が嫌で仕方がない。

本当にごめんね。

大事な家族だったおじいちゃん、今まで本当にありがとう。

ゆっくり休んでくださいね。

なんか残したくて書いたけど、自己満足文章だ。

でもいいんだ。